2015年1月25日
第12話 姫、老僧の啓示で道を知る
妙荘王が妙善姫の決心を聞いてから十日ほど経った或る日のこと、姫は花園の水掛を終え一息吐いて満開の百花を眺めていました。その時フト後の方で人の気配がしたので驚いて振り向くと、そこに一人の老僧が立っていました。年の頃は七十余りで真っ白な僧衣を纏い、眉は太く長く、細面で白髯は胸まで垂れ、身動ぎもせず姫をじっと見詰めていました。その雰囲気は、人を圧するような威厳に満ちていました。
「御坊様、此処は王家の御苑ですのに、どのようにして易々と此処に入って来られましたか。濫りに闖入したことが知れますと、重罪に処せられます」
すると老僧は、笑って
「これは失礼。愚僧も美しい花に見惚れて知らぬ間にこの御苑に足を踏み入れてしまったが、そなたはどちらの娘さんですか」
僧侶の言葉は温かく、人を惹き付ける力があって、姫はこの老僧に好感が持てました。
「私は、平民の娘ではありません。王女、妙善と申します」
僧侶は、怪訝な顔をして尋ねました。
「王女たる身分の方が何故に平服を纏い、このような花園で仕事を為さる必要があろう」
姫は俯いたままこの問いには答えず、何故か自分の身の上については話をする気になれません。それよりも、僧侶と話をしているところを人に見られては困ると思いました。
御苑は常時固く警護されており、一般人の立ち入りが禁じられています。入ることが出来ない筈なのに、どうして入って来られたのか。折悪しく保母は所用のため外出していて、相談する相手も居らず、仕方なく姫は落ち着いて老僧の風貌を観察することにしました。一見したところ老僧は、長い修行を歴て来られた高徳の僧侶のように感じられます。そのとき老僧が、また口を開きました。
「何かの理由があろう。拙僧は、決して案ずる程の者ではない。思うに深い仔細がありそうであるが、良かったら安心して話してみるがよい」
姫は、この一言に心の蟠りが解け、面を上げて
「私は仏門に帰依して修行したいのですが、父君がそれを許して下さいません。婿君を迎える件で父君に逆らい、お怒りに触れて此処に貶(おく)られて来ました」
姫は恥じらいながらも、決意の程を眉宇に示して話しました。老僧は暫く考えていたが
「また、どうして父君に逆らってまでして行を修めなければならないのか」
「はい、世の一時の栄華よりも久遠の涅槃を求めたい一念からです」
「しかし、そなたは王女の身分であり、しかも婦女子であるから涅槃の道を得るのは容易ではあるまい。宮中に返って、栄華の生活を享受した方が好いであろう」
一瞬姫の顔は曇り
「これは異な事を仰います。弥陀・仏陀の道を信奉するのに、高下貧富の差は無いはずです。誰しも一念発願して悪業を断ち、修行に励みさえすれば、男女を問わず無上正等正覚を得ることが出来、涅槃へ昇ることが出来ると信じます」
老僧は首を振って
「いや、実を言えば拙僧も元は或る国の高貴な身分の者であったが、人に勧められて弥陀の道に入った。しかし清静安楽は疎か、言語に絶する苦しい修行だけであって、一向に道を得ることが出来なかった。修行するには、仏骨がなければ成道に至ることは到底適うものではない。悪い事は言わぬ。今からでも遅くはない。青春は幾許もあるまい。出家禁戒は苦しきもの。斎食精進に何の趣があろう。苦しい修行よりも、楽しい世の風情を味わった方がよい。また一世の人身は真に得難く、七宝を以てしても若さ溢れる青春の時代は買えないものじゃ」
姫は話を聞き終わるや、強い語調で老翁に答えました。
「老僧、私はそなたを見損ないました。長い修行は、堕落のためですか。昔から成道した仏・仙・神・聖は、均しく凡人から成ったものです。何れの経典にもあるように、酒色財気は人を迷わせ、凡塵の苦海は人を害する陥穽であると説かれています」
老僧は、黙ったまま姫の話を聞いていました。姫は言葉を続けて
「長老の御坊様に向かって説法がましい事を申し上げた私の罪は重うございますが、仏陀ですら元は王子です。凡そ功徳を積み、善事を培えば霊魂は三界を超え、丈六の金身が得られます。百歳の光陰は火の爍(あかり)であり、富貴功名は浮雲の如くであり、何故それに恋々とする必要がありましょう。此の身は得難い、故に今、此の身のある間に修めなければ何時の日に此の身が救われましょうか」
姫はだんだん話が熟するにつれて、顔全体が火照り、ますます熱意を込めて
「どうぞ御坊も心を定めて、三心両意を払い、一心に正しい道を修めて下さい。そうすれば、自然に成仏できます。目前は良くなくとも、功が成った暁には万古に名が残りましょう。天・地・人三曹は人が掌っているもの、苦楽も元は一つの心からなるものです。遅かれ早かれ善悪は、最後には必ず応報がございましょう」
このとき老僧は、声を挙げて呵々大笑して
「正しく姫は、仏縁の深い方だ。いや、赤面した。ところで姫に伺うが、姫は真実に誠心を以て修道したいと思っているのか」
「勿論、心から強く決意し、朝晩怠りなく努めています」
姫は、変に思いました。先ほどは私をどちらの娘さんと訊き、今は聞きしに勝る姫だと言う。老僧は、ニッコリ笑って
「修行すれば自然に成道できると説くが、では如何ほどの功徳を修めればよいのか。苦海を脱して三界を超え西天へ成仏できると言うが、何の証拠によるのか」
この言葉は、忽ち妙善姫を感動させました。瞬きもせず、老僧の姿を見詰めたまま動きません。老僧は続いて
「三心両意を一心に収めたいがその一心はどこにあり、父母未生以前の本来の霊はどこにあるのか。人は父母の清濁を体として生まれたが、この清濁二気をどうして分けるのか。煩悩雑念で顛倒した心猿意馬をどこに縛り付ければよいのか。これを知らなければ、結果は四生六道の輪廻から解脱できないと思うが、どう思われる」
姫は項垂れて想いに耽り、答えもできません。何故ならば老僧の質問は、姫が今まで疑問に思い、心に解けないことばかりだったのです。そのとき姫はフト気付いて、もしやこの老僧は来歴のある偉い方に違いない。今日は、或いは私を度すために来られたのかも知れない。聡明な姫は、急に胸が高鳴り、耳朶が真っ赤になってきました。先刻以来の質問は、私の信心を試すためのものだったのではないか。私は験されたのだ、これは悪い事を言ってしまった。早く謝らなくてはならない、と姫は慌ただしく大地に両膝を跪き、伏して老僧を拝み
「老師父様。わざわざの御来臨と気が付きませず、無礼の数々をお赦し下さいませ」
老僧は、再び大声で笑い
「そなたの一心は、見上げたものだ。お起ちなされ」
老僧は手で招きましたが、姫は立ち上がろうとしません。思い掛けない仏縁に感激し、虔みて顔を上げ老僧を仰ぎ見ると、今までの老僧の姿が一変して荘厳な宝相に見え、全身から毫光が燦然と輝き、顔は慈愛に満ち溢れていました。姫は畏みて
「老師様、御慈悲を以て道を得させて下さいませ」
老僧は徐に口を開き
「塵劫未だ消えず、苦難未だ受けずして、どうして得道ができよう」
老僧は暫く黙想していたが
「只、そなたが苦しみに耐え忍ぶ堅い決心で修めさえすれば、得道は難しくはない。正法を得れば、心は明鏡の如く清浄無垢になれるであろう。苦もなく自然に行住坐臥、常に無我の境地に至れよう。暫くは苦しい修行の期間を経なくてはならないが、よく耐え忍ぶことだ」
姫は、老僧の慈愛に満ちた諭しを一句も聞き漏らすまいとしました。ちょうど、渇した魚が水を得たような心境でした。
「老師父様。一体私は、何時まで修めれば得道できるのでしょうか」
姫は、哀願にも似た必死の眼差しで老僧を見上げました。
保母がその朝、再三昨日の事を余り熱心に聞き質しますので、姫は終に一部始終を話しました。聞き終わって保母は、喜びを隠しきれず、手を胸に組み、仏の御指示を感謝しました。妙善姫に得道の望みがある事を聞いて保母は、天にも昇るような気持ちでした。心の中で、もし姫が将来正果を証せられたら、私にも好い報いがあるに違いない。一生姫と修行を共にしよう、須弥山への行にはお供をさせていただけるようにお願いもしよう。それなら、今からでも徐々に準備をしなければならない。保母の心中は、嬉しさの余り急に明るくなってきました。この日から姫は、将来の宿望を達するべく思いを凝らし続けました。
須弥山は、此所から西南千里の遠方にあります。しかし姫は、白蓮が何処にあっても、如何なる断崖絶壁に生えていても、必ず攀じ登って行かなければならない。他人の力に頼らず、自分の努力で必ず手に入れなければならない、と強く思いました。
老師の言われる魔障があろうとも、既に身を捨てて修道する意を決した者にとってこれを克服するに何の困難があろう。艱難あればあるほど、ますますその難関を打破しなければならない。そこに始めて光明があり、彼岸があり、覚路がある。千劫万難があり、荊棘の阻害があっても避けてはならない。身を捨ててこそ浮かぶ瀬もある、自分の為し得る限りを尽くして、天命を俟てばよい。法縁が来たれば、千里を隔てていても最後には到達する機会があろう。どんな迫害を受けても宏願を果たしたい、と意志を固められ、何時までも老僧の言葉を胸に銘記して忘れることがありませんでした。
第13話 妙荘王、姫を白雀寺に預ける 妙荘王は終日、妙善姫の事で悶々として気の晴れることがありません。何らかの手を打ってでも早く改心させたい…当初は花園へ貶(おく)れば苦しさの余り直ぐに心を翻すと考えていたのが誤りで、甘く考え過ぎていたと思うようになりました。
姫は改心するどころか、報告によれば、近頃は益々修行に凝っているとのことで、妙荘王の心をいよいよ暗くさせました。妙荘王としては、とても姫を手放す気にはなれません。是非姫の修行の心を断念させたいという気持ちで一杯です。
ある日妙荘王は、二人の婿を召して妙善姫の事で相談しました。
「何らかの手段を講じて姫を引き止めなければ、段々と深みに嵌り込んで、取り返しが付かなくなるのではないか」 妙音姫の婿、超魁が進み出て
「今の姫に修行を断念させることは困難と思われます。それよりもむしろ希望通りにさせた上、厳しく苦行させて懲らしめては如何でございましょう」
妙荘王は
「一体、どのようにして懲らしめると言うのか」
「愚臣の考えでは、城南に白雀という尼寺があり、およそ五百人ほどの尼僧が修行しています。直ぐにでもそこの長老尼僧を召し寄せ、姫をその寺に下働きとして預けさせ、衆尼に命じて修行の苦しみを思い知らせてやるように仕向ければよいのではないでしょうか。そうすれば、姫は忽ち退嬰してしまうことでございましょう」
妙荘王は、これは名案だと思って令を発し、直ぐに長老尼僧を召しました。命を聴いた白雀寺の長老尼僧得真(とくしん)は、一体何事が起こったのかと訝り、直ちに御殿に登りました。
苦悶に満ちた顔をした妙荘王の側では、二人の姫婿が深刻な面持ちで何かを協議していました。妙荘王は、長老尼僧が殿前に額づいたのを見て
「今日そなたを召し寄せたのは、外でもない。姫・妙善が近来日増しに仏道を好み修行に励んでいることは、そなた達も聞き及んでいるであろう。余が姫を花園に遣って農作業をさせているのは、結局翻意を促すためである。ところが姫は、労苦を厭うどころか、益々頑固になり迷執してしまった。そこで、今度はそなたの寺院へ姫を預けたいと思う。その意図は、決して姫を仏道に帰依させるためではない。姫に最も苦しい仕事を言い付け、存分に姫を懲らしめて修行を思い止まらせて欲しい。従って、姫には少しの暇を与えてはならない。炊事、水汲み、薪割りから洗濯に至るまで何でもさせ、姫を怠けさせてはならない。少しでも時間が余れば草鞋を編ませ、また衆尼に命じて常に修行の苦しさを聞かせてやれ。要は、姫を改心させることだ。首尾良く姫を改心させることが出来れば、過分の賞を取らせるであろう」
長老尼僧は、一瞬顔面蒼白になり、肝を潰さんばかりに驚きました。これは、大変な事になった。自分や衆尼の最も尊敬する姫に修行を断念させるようにとの仰せであるが、戒律を守るべき修行者にとって、自分が破戒することは勿論、人の清規を破らせる如き行為は如何なる重罪に問われることか…しかも五百人の尼僧の頂点に立つ長老として、このような所業は命に代えても出来るものではありません。それは、刀を自分の喉笛に突き刺す以上の難事です。 長老尼僧は、恐ろしさの余り、心は顛倒錯乱してしまいました。そのとき妙荘王は、更に一声、長老尼僧を狼狽させる言葉を告げました。
「明朝早速姫を遣わすから、命令に従うように。もし勧めて姫を改心させることが出来なければ、重罪に処するであろう」
この厳しいお達しに長老尼僧は、全身を震わせ、取り乱した態で寺に帰ってきました。直ちに全尼衆が集められ、得真長老尼僧によって事の始終が告げられました。話を聞いた五百有余の尼僧達は、顔色を失い、呆然として誰一人口を開くことが出来ません。
独善に走った権力者の命令は時として過酷な要求を良善者に強いるもので、平常徳政に厚い妙荘王も、一歩間違った考えを持つことによって大罪を犯す破目に至りました。
長老尼僧が帰った後妙荘王は、宮女に命じ、花園にいる姫にこの旨を伝達させ、更に信任の厚い宮女・永蓮を召して言い付けました。
「明朝、汝は姫に付き添って共に白雀寺へ行き、終日厳しく姫を監察せよ。事々に荒く仕向けても差し支えない。要は、姫に真の苦しみを嘗めさせてやることである」
「委細、承知仕りましてございます」
忠実な永蓮は、王命を拝受して引き下がりました。
一方姫は、宮女から事の顛末を聞き、いよいよ修練の時期が来たことを覚悟しました。急いで保母に謀り、荷物を纏めて
「保母、お世話になりました。愛顧の程は、終生忘れません。そなたも、お体に気を付け、修行を続けて下さい」 と別離を惜しみました。保母は、とんでもないと首を振って
「姫、私も参ります。苦労は厭いません。どうか、一緒に連れて行って下さいませ。私は、以前から考えていました。一生、お側に仕えさせていただくことをお許し下さいませ」
姫は何度となくこの申し出を辞退しましたが、保母の固い決意に負けて、詮方なく保母を連れて行くことにしました。
花園での長い生活を終え、明日はいよいよ宮廷を離れ、本格的な修行の途に発つことになりました。姫は感無量で胸が一杯になりました。想い出の多い宮殿から去って行くことに未練は無いが、父君の不明理と無理解が悲しく、亡き母君が御在世なれば或いは許していただけたのにと心を痛めました。
二人の姉君とは花園で別れたきり、その後一度も会っていません。あの日話を聞いて俯いたまま帰って行った二人の後ろ姿が、深い印象となって甦って来ました。
血縁の繋がりは濃く深く、別離の時になって想い出すのでした。母君の亡き後本当に親切にしていただいた姉君達も、時期が至れば、必ずや私の事を理解してくれるものと信じていました。
恐らく成道するまでは、二度と再び宮廷に帰って来ることはないような気がしました。十六年の間ひたむきに可愛がって下さった父君、あるいは母君の大恩に対する感謝の念は、募るばかりで忘れることがありません。その大恩に報いる道は只一つ、自分が先に妙智慧の開悟を得て彼岸に到り、早く無上正等覚を得て涅槃の果を証し得ることであり、その暁にこそ報われるものである…という考えが益々切実に感じられるのでした。
もし一子成道せば上七代の祖先、下九代の子孫に恩恵が及ぶと経典にあり、それを得ることが真の孝行であり、父母養育の恩に永久に報いることが出来るものであります。しかし、このことは父・妙荘王には理解していただくことは出来ません。千万言を費やして説明しても、今のところ到底考えることは出来ないようです。
妙荘王の頑固な考えは、悉く強硬な反対策となって姫を圧迫し、進む道を思い止まらせる苦策に変わっていきます。一方の姫は、これこそ自分の心霊を磨いてくれる修練であると受け取り、なお一層その決意を固めるのでした。
修行者にとっては、障害も迫害も得道の縁である。更に多くの百鬼夜叉や修羅悪魔の阻害を受けなければならず、それを乗り越えた彼方に彼岸があり、光明があるのです。そこが仏陀の説かれた西方極楽であって、それに逆らっては得道の機会を失ってしまうのです。
先日花園で老僧に出会った際、姫は老僧から更にもっと艱難があることを教示してもらいました。必ず最後まで終始一貫してこの考えを改めてはならない、姫のこの決意は正に驚天動地に値し、鬼神をも哭かしめ、仙仏をして慌てさせるほどのものでありました。
「御坊様、此処は王家の御苑ですのに、どのようにして易々と此処に入って来られましたか。濫りに闖入したことが知れますと、重罪に処せられます」
すると老僧は、笑って
「これは失礼。愚僧も美しい花に見惚れて知らぬ間にこの御苑に足を踏み入れてしまったが、そなたはどちらの娘さんですか」
僧侶の言葉は温かく、人を惹き付ける力があって、姫はこの老僧に好感が持てました。
「私は、平民の娘ではありません。王女、妙善と申します」
僧侶は、怪訝な顔をして尋ねました。
「王女たる身分の方が何故に平服を纏い、このような花園で仕事を為さる必要があろう」
姫は俯いたままこの問いには答えず、何故か自分の身の上については話をする気になれません。それよりも、僧侶と話をしているところを人に見られては困ると思いました。
御苑は常時固く警護されており、一般人の立ち入りが禁じられています。入ることが出来ない筈なのに、どうして入って来られたのか。折悪しく保母は所用のため外出していて、相談する相手も居らず、仕方なく姫は落ち着いて老僧の風貌を観察することにしました。一見したところ老僧は、長い修行を歴て来られた高徳の僧侶のように感じられます。そのとき老僧が、また口を開きました。
「何かの理由があろう。拙僧は、決して案ずる程の者ではない。思うに深い仔細がありそうであるが、良かったら安心して話してみるがよい」
姫は、この一言に心の蟠りが解け、面を上げて
「私は仏門に帰依して修行したいのですが、父君がそれを許して下さいません。婿君を迎える件で父君に逆らい、お怒りに触れて此処に貶(おく)られて来ました」
姫は恥じらいながらも、決意の程を眉宇に示して話しました。老僧は暫く考えていたが
「また、どうして父君に逆らってまでして行を修めなければならないのか」
「はい、世の一時の栄華よりも久遠の涅槃を求めたい一念からです」
「しかし、そなたは王女の身分であり、しかも婦女子であるから涅槃の道を得るのは容易ではあるまい。宮中に返って、栄華の生活を享受した方が好いであろう」
一瞬姫の顔は曇り
「これは異な事を仰います。弥陀・仏陀の道を信奉するのに、高下貧富の差は無いはずです。誰しも一念発願して悪業を断ち、修行に励みさえすれば、男女を問わず無上正等正覚を得ることが出来、涅槃へ昇ることが出来ると信じます」
老僧は首を振って
「いや、実を言えば拙僧も元は或る国の高貴な身分の者であったが、人に勧められて弥陀の道に入った。しかし清静安楽は疎か、言語に絶する苦しい修行だけであって、一向に道を得ることが出来なかった。修行するには、仏骨がなければ成道に至ることは到底適うものではない。悪い事は言わぬ。今からでも遅くはない。青春は幾許もあるまい。出家禁戒は苦しきもの。斎食精進に何の趣があろう。苦しい修行よりも、楽しい世の風情を味わった方がよい。また一世の人身は真に得難く、七宝を以てしても若さ溢れる青春の時代は買えないものじゃ」
姫は話を聞き終わるや、強い語調で老翁に答えました。
「老僧、私はそなたを見損ないました。長い修行は、堕落のためですか。昔から成道した仏・仙・神・聖は、均しく凡人から成ったものです。何れの経典にもあるように、酒色財気は人を迷わせ、凡塵の苦海は人を害する陥穽であると説かれています」
老僧は、黙ったまま姫の話を聞いていました。姫は言葉を続けて
「長老の御坊様に向かって説法がましい事を申し上げた私の罪は重うございますが、仏陀ですら元は王子です。凡そ功徳を積み、善事を培えば霊魂は三界を超え、丈六の金身が得られます。百歳の光陰は火の爍(あかり)であり、富貴功名は浮雲の如くであり、何故それに恋々とする必要がありましょう。此の身は得難い、故に今、此の身のある間に修めなければ何時の日に此の身が救われましょうか」
姫はだんだん話が熟するにつれて、顔全体が火照り、ますます熱意を込めて
「どうぞ御坊も心を定めて、三心両意を払い、一心に正しい道を修めて下さい。そうすれば、自然に成仏できます。目前は良くなくとも、功が成った暁には万古に名が残りましょう。天・地・人三曹は人が掌っているもの、苦楽も元は一つの心からなるものです。遅かれ早かれ善悪は、最後には必ず応報がございましょう」
このとき老僧は、声を挙げて呵々大笑して
「正しく姫は、仏縁の深い方だ。いや、赤面した。ところで姫に伺うが、姫は真実に誠心を以て修道したいと思っているのか」
「勿論、心から強く決意し、朝晩怠りなく努めています」
姫は、変に思いました。先ほどは私をどちらの娘さんと訊き、今は聞きしに勝る姫だと言う。老僧は、ニッコリ笑って
「修行すれば自然に成道できると説くが、では如何ほどの功徳を修めればよいのか。苦海を脱して三界を超え西天へ成仏できると言うが、何の証拠によるのか」
この言葉は、忽ち妙善姫を感動させました。瞬きもせず、老僧の姿を見詰めたまま動きません。老僧は続いて
「三心両意を一心に収めたいがその一心はどこにあり、父母未生以前の本来の霊はどこにあるのか。人は父母の清濁を体として生まれたが、この清濁二気をどうして分けるのか。煩悩雑念で顛倒した心猿意馬をどこに縛り付ければよいのか。これを知らなければ、結果は四生六道の輪廻から解脱できないと思うが、どう思われる」
姫は項垂れて想いに耽り、答えもできません。何故ならば老僧の質問は、姫が今まで疑問に思い、心に解けないことばかりだったのです。そのとき姫はフト気付いて、もしやこの老僧は来歴のある偉い方に違いない。今日は、或いは私を度すために来られたのかも知れない。聡明な姫は、急に胸が高鳴り、耳朶が真っ赤になってきました。先刻以来の質問は、私の信心を試すためのものだったのではないか。私は験されたのだ、これは悪い事を言ってしまった。早く謝らなくてはならない、と姫は慌ただしく大地に両膝を跪き、伏して老僧を拝み
「老師父様。わざわざの御来臨と気が付きませず、無礼の数々をお赦し下さいませ」
老僧は、再び大声で笑い
「そなたの一心は、見上げたものだ。お起ちなされ」
老僧は手で招きましたが、姫は立ち上がろうとしません。思い掛けない仏縁に感激し、虔みて顔を上げ老僧を仰ぎ見ると、今までの老僧の姿が一変して荘厳な宝相に見え、全身から毫光が燦然と輝き、顔は慈愛に満ち溢れていました。姫は畏みて
「老師様、御慈悲を以て道を得させて下さいませ」
老僧は徐に口を開き
「塵劫未だ消えず、苦難未だ受けずして、どうして得道ができよう」
老僧は暫く黙想していたが
「只、そなたが苦しみに耐え忍ぶ堅い決心で修めさえすれば、得道は難しくはない。正法を得れば、心は明鏡の如く清浄無垢になれるであろう。苦もなく自然に行住坐臥、常に無我の境地に至れよう。暫くは苦しい修行の期間を経なくてはならないが、よく耐え忍ぶことだ」
姫は、老僧の慈愛に満ちた諭しを一句も聞き漏らすまいとしました。ちょうど、渇した魚が水を得たような心境でした。
「老師父様。一体私は、何時まで修めれば得道できるのでしょうか」
姫は、哀願にも似た必死の眼差しで老僧を見上げました。
保母がその朝、再三昨日の事を余り熱心に聞き質しますので、姫は終に一部始終を話しました。聞き終わって保母は、喜びを隠しきれず、手を胸に組み、仏の御指示を感謝しました。妙善姫に得道の望みがある事を聞いて保母は、天にも昇るような気持ちでした。心の中で、もし姫が将来正果を証せられたら、私にも好い報いがあるに違いない。一生姫と修行を共にしよう、須弥山への行にはお供をさせていただけるようにお願いもしよう。それなら、今からでも徐々に準備をしなければならない。保母の心中は、嬉しさの余り急に明るくなってきました。この日から姫は、将来の宿望を達するべく思いを凝らし続けました。
須弥山は、此所から西南千里の遠方にあります。しかし姫は、白蓮が何処にあっても、如何なる断崖絶壁に生えていても、必ず攀じ登って行かなければならない。他人の力に頼らず、自分の努力で必ず手に入れなければならない、と強く思いました。
老師の言われる魔障があろうとも、既に身を捨てて修道する意を決した者にとってこれを克服するに何の困難があろう。艱難あればあるほど、ますますその難関を打破しなければならない。そこに始めて光明があり、彼岸があり、覚路がある。千劫万難があり、荊棘の阻害があっても避けてはならない。身を捨ててこそ浮かぶ瀬もある、自分の為し得る限りを尽くして、天命を俟てばよい。法縁が来たれば、千里を隔てていても最後には到達する機会があろう。どんな迫害を受けても宏願を果たしたい、と意志を固められ、何時までも老僧の言葉を胸に銘記して忘れることがありませんでした。
第13話 妙荘王、姫を白雀寺に預ける 妙荘王は終日、妙善姫の事で悶々として気の晴れることがありません。何らかの手を打ってでも早く改心させたい…当初は花園へ貶(おく)れば苦しさの余り直ぐに心を翻すと考えていたのが誤りで、甘く考え過ぎていたと思うようになりました。
姫は改心するどころか、報告によれば、近頃は益々修行に凝っているとのことで、妙荘王の心をいよいよ暗くさせました。妙荘王としては、とても姫を手放す気にはなれません。是非姫の修行の心を断念させたいという気持ちで一杯です。
ある日妙荘王は、二人の婿を召して妙善姫の事で相談しました。
「何らかの手段を講じて姫を引き止めなければ、段々と深みに嵌り込んで、取り返しが付かなくなるのではないか」 妙音姫の婿、超魁が進み出て
「今の姫に修行を断念させることは困難と思われます。それよりもむしろ希望通りにさせた上、厳しく苦行させて懲らしめては如何でございましょう」
妙荘王は
「一体、どのようにして懲らしめると言うのか」
「愚臣の考えでは、城南に白雀という尼寺があり、およそ五百人ほどの尼僧が修行しています。直ぐにでもそこの長老尼僧を召し寄せ、姫をその寺に下働きとして預けさせ、衆尼に命じて修行の苦しみを思い知らせてやるように仕向ければよいのではないでしょうか。そうすれば、姫は忽ち退嬰してしまうことでございましょう」
妙荘王は、これは名案だと思って令を発し、直ぐに長老尼僧を召しました。命を聴いた白雀寺の長老尼僧得真(とくしん)は、一体何事が起こったのかと訝り、直ちに御殿に登りました。
苦悶に満ちた顔をした妙荘王の側では、二人の姫婿が深刻な面持ちで何かを協議していました。妙荘王は、長老尼僧が殿前に額づいたのを見て
「今日そなたを召し寄せたのは、外でもない。姫・妙善が近来日増しに仏道を好み修行に励んでいることは、そなた達も聞き及んでいるであろう。余が姫を花園に遣って農作業をさせているのは、結局翻意を促すためである。ところが姫は、労苦を厭うどころか、益々頑固になり迷執してしまった。そこで、今度はそなたの寺院へ姫を預けたいと思う。その意図は、決して姫を仏道に帰依させるためではない。姫に最も苦しい仕事を言い付け、存分に姫を懲らしめて修行を思い止まらせて欲しい。従って、姫には少しの暇を与えてはならない。炊事、水汲み、薪割りから洗濯に至るまで何でもさせ、姫を怠けさせてはならない。少しでも時間が余れば草鞋を編ませ、また衆尼に命じて常に修行の苦しさを聞かせてやれ。要は、姫を改心させることだ。首尾良く姫を改心させることが出来れば、過分の賞を取らせるであろう」
長老尼僧は、一瞬顔面蒼白になり、肝を潰さんばかりに驚きました。これは、大変な事になった。自分や衆尼の最も尊敬する姫に修行を断念させるようにとの仰せであるが、戒律を守るべき修行者にとって、自分が破戒することは勿論、人の清規を破らせる如き行為は如何なる重罪に問われることか…しかも五百人の尼僧の頂点に立つ長老として、このような所業は命に代えても出来るものではありません。それは、刀を自分の喉笛に突き刺す以上の難事です。 長老尼僧は、恐ろしさの余り、心は顛倒錯乱してしまいました。そのとき妙荘王は、更に一声、長老尼僧を狼狽させる言葉を告げました。
「明朝早速姫を遣わすから、命令に従うように。もし勧めて姫を改心させることが出来なければ、重罪に処するであろう」
この厳しいお達しに長老尼僧は、全身を震わせ、取り乱した態で寺に帰ってきました。直ちに全尼衆が集められ、得真長老尼僧によって事の始終が告げられました。話を聞いた五百有余の尼僧達は、顔色を失い、呆然として誰一人口を開くことが出来ません。
独善に走った権力者の命令は時として過酷な要求を良善者に強いるもので、平常徳政に厚い妙荘王も、一歩間違った考えを持つことによって大罪を犯す破目に至りました。
長老尼僧が帰った後妙荘王は、宮女に命じ、花園にいる姫にこの旨を伝達させ、更に信任の厚い宮女・永蓮を召して言い付けました。
「明朝、汝は姫に付き添って共に白雀寺へ行き、終日厳しく姫を監察せよ。事々に荒く仕向けても差し支えない。要は、姫に真の苦しみを嘗めさせてやることである」
「委細、承知仕りましてございます」
忠実な永蓮は、王命を拝受して引き下がりました。
一方姫は、宮女から事の顛末を聞き、いよいよ修練の時期が来たことを覚悟しました。急いで保母に謀り、荷物を纏めて
「保母、お世話になりました。愛顧の程は、終生忘れません。そなたも、お体に気を付け、修行を続けて下さい」 と別離を惜しみました。保母は、とんでもないと首を振って
「姫、私も参ります。苦労は厭いません。どうか、一緒に連れて行って下さいませ。私は、以前から考えていました。一生、お側に仕えさせていただくことをお許し下さいませ」
姫は何度となくこの申し出を辞退しましたが、保母の固い決意に負けて、詮方なく保母を連れて行くことにしました。
花園での長い生活を終え、明日はいよいよ宮廷を離れ、本格的な修行の途に発つことになりました。姫は感無量で胸が一杯になりました。想い出の多い宮殿から去って行くことに未練は無いが、父君の不明理と無理解が悲しく、亡き母君が御在世なれば或いは許していただけたのにと心を痛めました。
二人の姉君とは花園で別れたきり、その後一度も会っていません。あの日話を聞いて俯いたまま帰って行った二人の後ろ姿が、深い印象となって甦って来ました。
血縁の繋がりは濃く深く、別離の時になって想い出すのでした。母君の亡き後本当に親切にしていただいた姉君達も、時期が至れば、必ずや私の事を理解してくれるものと信じていました。
恐らく成道するまでは、二度と再び宮廷に帰って来ることはないような気がしました。十六年の間ひたむきに可愛がって下さった父君、あるいは母君の大恩に対する感謝の念は、募るばかりで忘れることがありません。その大恩に報いる道は只一つ、自分が先に妙智慧の開悟を得て彼岸に到り、早く無上正等覚を得て涅槃の果を証し得ることであり、その暁にこそ報われるものである…という考えが益々切実に感じられるのでした。
もし一子成道せば上七代の祖先、下九代の子孫に恩恵が及ぶと経典にあり、それを得ることが真の孝行であり、父母養育の恩に永久に報いることが出来るものであります。しかし、このことは父・妙荘王には理解していただくことは出来ません。千万言を費やして説明しても、今のところ到底考えることは出来ないようです。
妙荘王の頑固な考えは、悉く強硬な反対策となって姫を圧迫し、進む道を思い止まらせる苦策に変わっていきます。一方の姫は、これこそ自分の心霊を磨いてくれる修練であると受け取り、なお一層その決意を固めるのでした。
修行者にとっては、障害も迫害も得道の縁である。更に多くの百鬼夜叉や修羅悪魔の阻害を受けなければならず、それを乗り越えた彼方に彼岸があり、光明があるのです。そこが仏陀の説かれた西方極楽であって、それに逆らっては得道の機会を失ってしまうのです。
先日花園で老僧に出会った際、姫は老僧から更にもっと艱難があることを教示してもらいました。必ず最後まで終始一貫してこの考えを改めてはならない、姫のこの決意は正に驚天動地に値し、鬼神をも哭かしめ、仙仏をして慌てさせるほどのものでありました。