道・真理は、宗教の経典の奥義として伝承されてきましたが、時代とともにその解釈は有名無実となってしまいました。老子には元始(ゲンシ)、孔子には項屣(コウモ)、釈迦には燃燈佛(ネントウブツ)が伝授しました。
老子は、道を玄牝の門(あらゆるものを生み出す)と表現し、神秘の中の神秘である衆妙の門(多くの人々に付与された性命の微妙な出入り口)といいました。
釈迦は、弟子スプーティに「解脱に至る道は、どのような道でしょうか。」と問われ、「解脱に至る道によって解脱を得るのではない。また道でないものによって解脱を得るのではない。
スプーティよ、解脱がそのまま道であり、道がそのまま解脱である。一を得ることが、その一切である。」と答えました。
また、摩訶迦葉に法灯を伝え「吾に正法眼蔵あり、涅槃の妙心、実相無相にして微妙の法門、不立文字、教外別伝、これを摩訶迦葉に附嘱す。」と説法し、正しい法が目の蔵にある。
それは涅槃への微妙な法門である。文字で表さず、教義の外に別に伝える、人(聖人)から人(聖人)に秘伝するものであると経典に記しています。
イエスは「吾は道なり真理なり、命なり…」と、十字架の交わる「一点」に真理を暗示しました。
古代中国の中原(洛陽)に降りた「道」は、点と線の幾何「河図洛書」、伏羲の「先天の八卦」などの天機をおろしました。
他にも世界各地に古代から無数の記録や遺物で暗示があるのはご承知のとおりです。
聖人は長い苦行苦修の上で「道」を得るため、ただちに悟りを開き徹することができます。しかし現代は修行の機会もなく得道しても聖人のように悟ることができません。
大転換の時期となり、この機会に新しく道を得る者には、この限られた時期に巡り合わせた特別な大義と役割があるように思います。
孔子が言った「時なるかな、時なるかな」、それは2500年を経たまさに今です。
また、聖書のマタイ3:1−12: 「私はお前たちに、回心に向け、水によって洗礼を施している。しかし私の後から来たるべき者は私よりも強い。私はその者の皮ぞうりを脱がす値打ちすらもない。彼こそ、お前たちに聖霊と火とによって洗礼を施すであろう。彼はその箕を手に持ち、その脱穀場を隅から隅まで掃除し、その麦を倉に集めるであろう。しかしもみ殻は、消えない火で焼き尽くすであろう。」
このあとから来たるべき者、の「あと」とは今で、「目覚めたもの」そしてその証は、聖霊と火による洗礼です。
歴史的な「道」が、宇宙規模で新たな備えをする時期を迎えています。
2013年4月29日 ウーテ
「過去の伝統的な道における個別のイニシエーションの状況で起きていたことは、いずれ遅かれ早かれ世界規模で起きるでしょうし、人類を高次元に先導する宇宙的なイベントとしても起きるでしょう―― 人類がそれを望むならば」
ヒラリオン 2013年10月6日ー10月13日
この惑星の人生(生命)の学校は今、代々人類を奮起させた光明を得た者達の道により密接に従うより高度な在り方と行いに、その学徒らを昇級させることになっています。
いまメッセージの中でも光の家族(西洋)に対し、道の眷属(東洋)との融合と進化が起こりつつあります。
当然「真理」に関わるこれらすべて「一なるもの」の流れです。
道すなわち真理は世界の変遷の軌道であり根源です。
「一なるもの」について
道の真象:
天地の始めは、これというなんら形のない混然としたもので、声もなく、臭いもない、極めて虚にして神なる実に無一物の境地でありました。道教の祖、老子様は「無名にして天地の始め、有名にして万物の母」と申されましたが、これを表現しようがないので天地の始めを「○」にかたどり、万物の生ずる状態を「一」にかたどりました。
道は大にして無名であります故に『強いて名づけて道という』のであります。又、道は大にして無形であります故に『強いて圏「○」を以ってこれをかたどった』のであります。では、圏「○」はなんであるかを追求しますと、一の静止した姿でありまして、虚なる「一塊の真理であり、又道の全体であります。一は圏の動いた姿であって、宇宙一切万物を生じる母体であり、万物はその実在の現れであります。これを「一本は万殊に散る』と言い、又『道の達用』と申しております。
圏が動いて一が生じ、一が縮まれば点「・」となり、点「・」を伸ばせば一となります.そこで実に圏と一と点は動静と伸縮の違いであり、変化して極まりないものであります。之を放して拡大すれば六合「東西南北上下、すなわち天地宇宙)を満たし、無際限の状態で伸長するので一を以ってこれを表し、又、之を巻いて縮小すれば密(極めて微細なもの)にも蔵められるので点で表現したのであります。拡大すれば大にして外になく、縮小すれば小にして内にありません。故にこの道は天地に行きわたり、一切の万物を含んでいるのであります。実に不可思議な働きをするので『真空妙有』と申されましたが、あらゆる万物の生霊を支配する主宰者であります。
この主宰者は天にあれば理と呼び、人に宿れば性と名づけられます。そこで理とは万物の本体を統一するところの性であり、性とはあらゆる物の各々が具有する所の理であります。人々は各々その性をもちながら、その有ることを知りません。若し、この性をお把握することが出来れば、大悟した神聖の境地になられます。然し、これに反して理を迷い、性を把握することがなかったならば、鬼魂の世界に落ちなければなりません。
故に『千経万典は一点に如かず』と申しまして、如何に多くの経典を読んでも、名師の一点を欠いては、何もならぬと申されたので、一点が如何に大事であるかを知ることが出来ます。この点は、孟子様の四端『惻隠の心即ち仁の端、羞悪の心即ち義の端・是非の心即ち智の端、辞譲の心即ち礼の端』を統一し、その中に万善を包含しているのであります。これを図表すれば竪は智と礼になり、横は仁と義になりまして、四端の交差する中心に信があるわけであります。孔子様は『人にして信なければ、その可なるを知らず』と申され、人間にもし信がなければ、何事もあてになるものではないと申して、この重要性を説いた訳もここにあります。
又、その重要性を竪に書いて「|」となし、横に書いて「─」としたのは体と用(本体とその働き)とを十字の形に現して、その竪には経と理が、横には緯と数が這入るのでありますが、この意味を深く玩味し、探究するならば、誠に極まりないものがあります。故に老子様は清淨経に『大道は無形にして天地を生育し、大道は無情にして日月を運行し、大道は無名にして万物を長養す』と申されました。道は未だ天地が成立せぬ時、その本体を立てられ、既に天地が形づくられてからは、その運用を拡大して天地万有に及ぼしたのであります。
道の淵源より
blog「道」より転載